英松庵お茶室披き並びに東日本大震災復興事業
 英松庵移築記念御家元講演会
 

裏千家第16代家元 坐忘斎 千宗室宗匠 様


演題「私の国際交流」

 

 今日は皆さん方の前でお話をする機会をいただいて大変嬉しく思っています。仙台育英学園理事長でいらっしゃる加藤雄彦校長先生の家と私の家とはずいぶん昔から仲良くさせていただいてきました。私は実は仙台の血が少し入っているのです。私の祖母が仙台の出身で、今日も祖母の実家のお墓参りをしてから、ここにやってきました。

 さて、今日いただいた講演のテーマは、外国語コースの皆さん方に対して国際交流のことについて話をしてほしいとのことです。今日は海外からの留学生の皆さんもずいぶん会場にいらっしゃるようです。

 私は1956年生まれの58歳です。ちょうど私が生まれた年に、「日本の戦後が終わった」、というふうに発表されました。私は京都に住んでいます。京都の町は東京や大阪に比べると進駐軍で残っていた人たちは少ない方でした。それでも私が幼稚園に行っているときは1クラス、外国人のクラスがありました。その当時、今のようにテレビは普及していなくて、ラジオの方が多かったのです。どんな人たちが世界にいるのかというのを知るには、映画を見るか、テレビのある家でアメリカのテレビドラマを見たりするしかありませんでした。しかし、そのときもカラーテレビではないので、たとえば外国の花が映っていてもどんな色かが分かりません。何も分からないまま、幼稚園で初めて外国人の子どもと一緒になり、それはそれは驚きました。おそらく向こうも驚いたかもしれませんが、写真でしか見たことのない人たちと一緒になり、そして今のように皆が英語に耳が慣れているわけではありません。今は、街中を歩いていても英語の看板やロゴマークがあり、テレビでJ-POPを聞いても横文字が多いでしょう。ですからなんとなく耳に馴染んでいるでしょうけれど、私たちにはそういうことが一つもありませんでした。
 私が通っていた幼稚園はプロテスタントの学校で、どちらかといえば開放的な雰囲気でした。それでも先生方でさえ、そう英語が喋れるということではなかったようです。今思うと、私たちも彼らが何を言っているのか分かりませんでしたが、彼らも同じでしたから、本当にお互い手探り状態で初めて触れ合っていったというのが、私の外国との初めての出会いでした。

 そのうちにテレビがどこの家庭にも普及するようになり、東京オリンピックを契機にカラーテレビが増えていきました。映画も、当時いわゆるロードショー館ですが、70ミリのシネマスコープや大きなスクリーンで初めて観た、アメリカ映画のハリウッドの底力に度肝を抜かれたわけです。その時代は歴史物の映画が多かったようです。アラビアの大砂漠を舞台にした『アラビアのロレンス』という映画で、主演俳優のピーター・オトゥールのエメラルド色の目を見て、外国人は目が綺麗だと思いました。男の役者なのに、子ども心にドキッとしたのを覚えています。

 そうやって少しずつ外国のものが近寄ってきて、情報として触れる機会が増えてきました。しかし、生身の人間同士が触れる機会は、幼稚園の外国人クラスで会ったとき以降、何の進歩もありませんでした。というのも、海外から来ている学生さんたちが日本人と一緒に学べるだけの環境を持った学校が、まだなかったからです。当時仕事の関係などで外国から日本に来ている人の子どもたちはカナディアンアカデミーやアメリカンスクールなどに行っていたので、余計に触れ合う機会がなかったのだと思います。

 そのような中で大学生になり、ちょうど成人する頃、私はユネスコの仕事で初めてフランスに行くことになりました。仕事といってもスーツ姿ではなく、基本的に着物でお茶を点てて文化交流をするというものでした。
 フランスに着物をたくさん抱えていきました。パリのホテルで着物に着替え、ユネスコの会場で、英語で言うところの“ティーセレモニー”を行い、大勢の人にお茶をあげることになっていました。
 そのときのことです。ホテルのロビーに降りるエレベーターに、着物を着て袴を付けた私が乗ると、先に乗っていた外国人の人たちがまるで雷に打たれたかのようにビクッとして、「なんだか妙なものが乗って来た」という顔でじろじろと私を見ました。そうして、エレベーターの中では不気味な沈黙が流れました。それまで何語か分かりませんが、いろいろなお話をしてたと思うのです。しかし、まるでお葬式の会場に向かう霊柩車の中のような静けさでした。そしてエレベーターから降りて、待ち合わせをしていたフロントまで行くときに、周りに立っている人たちが二つに割れていくのです。私はまるで自分がホオジロザメになったかのような気持ちになりながら進んでいきました。その数年後に「ジョーズ」という映画がヒットしましたので、なんとなくあれは私がモデルだと思いました。

 そのとき、フランスのパリのホテルにいた人たちが、私はフランス語が全然分からないので喋りかけられても何も応えられません。それで通訳の人に聞くと、「どこのエリアの、なんという国の人間だ」と質問しているそうなのです。それぞれの国の民族衣装というものがありますね。いろいろなものがあると思いますが、ブルカを被っているイスラム圏のようなものもあれば、私の友人にインド人が何人もいますが、シーク族は髭を絶対に切らなかったり、ターバンの巻き方だとかいろいろあるようです。結構、そういったものは民族衣装でも見ているわけです。ところが着物・袴というものに関しては、たまたまその場にいた人たちが知らなかったのかもしれませんが、当時のヨーロッパ圏の人々は情報を持っていなかったようです。ベトナム戦争があった頃だったので「ベトナムかどこかか」と聞かれました。「いえ、私たちは日本人です」と私が答えると「日本ね」と言って、そこで会話は終わってしまうのです。

 それが1970年過ぎの話だとしますと、それから今、日本というものを考えてみてください。少なくとも、日本に来たことがない人でも着物を見れば、チマチョゴリと間違える人はいるかもしれませんが、Far East(極東)の国の人たちが来ているということは分かってもらえると思います。しかしその当時は、ヨーロッパの人たちから言えば、西アジアから……つまりインドを挟んだ向こうにはどんな国があるかよく分からない、というのが当たり前のレベルの時代でした。

 カルチャーショックならぬ“カルチャーギャップ”を初めて経験したのもパリでした。パリは細い道が多く、車を停めるスペースがギリギリしかないのです。当時はシトロエンという車が大衆車で、私が乗せてもらっていた車もそうでした。運転手が車と車の間に停めようとしたのですが、空いているスペースがシトロエンの幅より狭いのです。でもそこに突っ込んでいくんです、入る訳がないのに。日本人だったら諦めます。でも、運転手は前の車にドンと突っ込み、後ろの車に突っ込み始めて「運転手は大丈夫か」と私は思いました。どうなるんだろうと思って見ていたら、繰り返しぶつかったことで前後の車が動いて駐車できました。驚いて通訳の人に「あれは良いんですか」と聞いたら「バンパーはぶつけるためにあるんです」という返事が返ってきました。バンパーは受け身を取るという意味ですから、当てるためについているのです。日本人だったらバンパーがぶつかったら、すぐに降りて傷を探して、一生懸命に拭くじゃないですか。でも、バンパーはぶつけるためのもの。あの光景は今でも私は覚えています。パリの友人に聞いたところ、今はぶつけると車から警報がなるので、あまりやらなくなったそうです。私の最初のカルチャーギャップはそれでした。

 そして、もう一つ不思議だったのは、パリというのは綺麗な街だというイメージがあるのですが、見ていると皆がゴミを捨てるので、足下が汚いのです。その当時フランス人はよくタバコを吸っていましたので、吸ってはポイ捨てをしていました。私の知り合いの人も吸っては捨てていたので、「灰皿じゃないですよ」と言うと、「いや、拾う人がいるから」と言うのです。「拾う人がいても、マナーが悪いのではないですか」と言うと「拾う人の仕事がなくなるでしょう」と。それもまた“カルチャーギャップ”でしたね。仕事を無くしちゃいけないから、捨てるんだという感覚です。それはフランス人全員がそうだったのではなかったでしょう。ですが、私が初めて行ったパリで驚いた出来事が、バンパーを当てることとタバコのポイ捨ての2つだったのです。

 その後、私は海外によく行くようになりました。次に行ったのは、当時はまだいろいろな意味での戦争が激しく起こっていた東南アジアのタイでした。当時、何ヵ所か難民キャンプがあり、そのボランティアでウボンとパナニコムという場所に行きました。バンコクの飛行場に着いて、国内線に乗り換えるのですが、まだ戦争難民が流れ込んでいて国境付近では大砲が飛び交っています。私たちが入ったキャンプも、フェンスとヤシの木に囲まれていたのですが、ブォンという音がすると砲撃で砂埃が立ちます。そういうキャンプへ行きました。そこでボランティアをしましたが、一緒に行ったスタッフの話によるとやはり物騒なところだということでした。夜になって何かを買い出しに行かなくてはいけなかったり、隣のキャンプまで夜道を走って届け物をしなくてはいけないときには、銃を渡されたそうです。なぜかというと、盗賊が襲ってきたり、ゲリラが物資を盗りに来たときに備えてだということでした。でも素人が銃で人を撃てるわけがないじゃないですか。特に日本はほとんど非武装の国です。ピストルを渡されて、「なんのためか」と聞いたら「ダメだと思ったときに自分を撃つためだ」と言って渡されたという話も聞きました。本当に厳しい環境のなかで、少しでも気の毒な目にあっている人のために役立とうとしている人がいるのは、頭が下がる思いでいっぱいでした。

 もう一箇所のキャンプでは、戦争で親を失ったり、難民として収容された子どもばかりのキャンプでした。そこでは子どもたちのための手作りの運動会ということをさせてもらいましたが、暑いしホコリは凄いし、お世辞にも衛生的だとはいえない場所でした。ものを食べようと煮炊きをしてもハエがたかってくるのです。ハエを追いながらものを食べなくてはいけない。さすがに食欲が落ちたり、胃を壊したり……。水道をひねってチョロチョロと出てくる水は、緑色をしていました。いったいいつ貯水槽を触って、いつパイプを洗ったのだろうと思えるようなところでした。私なんかは泣き言ばかりのボランティアでしたが、とくにキャンプの子どもたちの顔を見ていると、情けないことは言えないなと思いました。

 大砲を打たれてドーンと音がして、砂埃が舞ったら驚きますよ。キャンプには打ち込めませんから威嚇射撃ですが、それでもびっくりします。でも子どもたちは驚かないんです。悲しいですけれど慣れているんです。聞いてみたら、道ばたでクラクションを鳴らすような、当たり前のことだという顔をしています。照りつけるような太陽も、立ち上ってくる湿気も、すぐ腕を真っ黒に覆い尽くすハエの群れも、ハエが来たら追えばいい、その程度のことだと、そのキャンプにいる子どもたちは対応していました。人はやはり環境に適合する強さを持っているのだなと思いました。

 もう一つは、強さと同時にその強さは何の上に成り立った強さかというと、諦めの上に成り立ったものだということを知りました。今自分の置かれている環境をすぐ抜け出そうと思っても、この子たちには不可能なのです。キャンプに収容された時点で、どんなに早くても5年、もっと長ければ10年、それ以上……。それくらいの時間をかけても、彼らが社会に復帰できるかどうかわからない。そして彼ら、彼女たちを受け入れてくれる社会があるとは限らないのです。一番大切な時期に勉強もできず、家族とも離れ、言葉は悪いけれどボランティアなどプロフェッショナルな人たちからの施しを受けた中での生活……。そこで希望を持てというのは、とても残酷なことだと私は思っていました。しかし、どうして子どもたちがこんなに強いのかと思ったのかというと、それはやはり、まず、ここから出られないということ、こうなってしまったという諦めの念、でも諦めてしまったままいけばもっと酷いことになるから、この酷い環境に対してとりあえず受け入れようという気持ちを持つこと……このような思いが強さに変わっていったと思うのです。

 私も皆さん方も、恵まれた環境で育ってきました。少なくとも皆さんは仙台育英学園で勉強ができて、私は少なくとも58歳までいろいろなところで人と出会う機会をつくってもらうことができました。こんな恵まれたことはありません。しかも私たちには選択をするという余地がたくさんあります。そのうえ、2つに1つでどっちかということではありません。5つも6つも、10も20もある中から好きなものを選んで良いくらい、恵まれた社会、そして世界で生きているわけです。そんな人たちはこの地球上で何%くらいだと思いますか。字も読めないし、もちろん電化製品なんか触れたこともない。それよりも自分が生まれたことも意識しないまま、栄養不足で死んでいく子どもたちがどれだけいるか。もちろん、生まれたことを意識しながら死んでいくのも辛いだろうけれど、産声をあげながら死んでいくような子どもたちがこの地球上にどれだけ大勢いるか。私は難民キャンプへ行った記憶をずっと今でも引きずっています。その時には分からなかったことでも、今それが自分の中で、ときどき驕り昂る気持ちが出てきてしまったときの反省として持つようにしています。

 仕事でそのようなところばかりに行くわけではなく、本当に選択の余地がありました。だから遊びで行ったこともあります。20歳か21歳のときアメリカに行ってみたいと思い、友達6人で西海岸の旅行に行きました。皆でお金を出し合って行ったので、安い飛行機に乗ってロサンゼルスに着いたとき、そこからメキシコに入りたいと思ったのですが、飛行機代がなかったのでダウンタウンの安いホテルに泊まりました。そのホテルでフロントのおじさんに、お互い英語は分からなかったのですが、「メキシコに行く方法は何かないか」と聞くと「バスがあるよ」「どこにある」「歩いていけるよ」……と、その程度の英語ながら、バス停までいくことができました。不思議なことに英語を喋れない同士の方が、楽しく喋れますね。しかしながら、バス停までの距離を聞かなかったので12ブロックくらい歩きました。明け方5時のバスに乗ろうと思い、4時に出発したのですがそれでも後半は走らなくてはいけませんでした。そしてメキシコにはグレイハウンドというバスで入ったのですが、これまで持っていたメキシコのイメージはまったく違うことに気づきました。

 私の中では、ロサンゼルスが明るい太陽の街で、メキシコはもっと明るいというものでした。でもその明け方のバスで見たアメリカのダウンタウンの様子は、当時電信柱の距離が本当に離れていたのです。しかも、3本のうち1本は電気がつかなくなっています。よく映画であるように、濡れたマンホールから蒸気がブワッと吹き出して、そこを皆でスーツケースをゴロゴロとぶら下げて行くわけです。そしてバス停に着いて、「昼にはマリアッチだ、楽しいぞ」と盛り上がっていました。

 しかしそこで見たのは、メキシコからアメリカに入って稼いだお金を持って帰るつもりの人たちが、結局は稼げずに、持っていた夢も消え去ってしまい、身体一つでメキシコへ帰っていく姿でした。そういった人ばかりのバスに偶然乗り合わせてしまったのかもしれません。バスが動き出して国境の検問所の手前まで本当に押し黙った空気で、エアコンも壊れていたので、すごく汗臭い車内で押し黙ったまま私はメキシコに入りました。それも、いかに自分が、私たちの世代の日本人皆が国際交流ができていなかったか、世界と付き合う間口がなかったかということの表れではなかったかと思います。

 せいぜい映画でしか知ることができなかった、そうでなければ、その頃急激に人気が出ていた『POPEYE』だとか『BRUTUS』といった雑誌の西海岸特集で、その写真でのみ、その国や街のことを知り、当時はコピー機もあまりなかったので、その情報を手帳やノートに書き付けて、抱えてその国へ行っていたわけです。ですから、パリへ行きカルチャーギャップに驚き、難民キャンプで自分たちの本当にのんべんだらりとした生活の情けなさに気付かされ、メキシコへ行くバスの中で、国を越えるというのは喜びだけではなくて、それ以上の大きな悲しみが押しかかってくるものだということも学びました。

 それを一番強く感じたのは15年ほど前に、文化交流の仕事でルーマニアに行ったときのことです。私は昔から知識として行ってみたい国のトップがルーマニアでした。なぜかというと、子どものとき夏になると映画館やテレビで必ず外国の古いホラー映画を流していました。それにはドラキュラ、ヴァンパイア映画が多かったのです。なぜか私はヴァンパイアが好きで、見るとドキッとしました。それこそ『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールの目をみたときと同じように。また、ドラキュラの役者がマントを翻して、綺麗なお姉さんに迫っていくのを見ると羨ましい……といったらいけないですが、ドキドキすることがたくさんありました。

 そのような理由で、ルーマニアには一度行ってみたいと思っていたのですが、ずっと独裁国家だったので行けなかったのです。チャウシェスクによる独裁国家が倒れたときに、外に向かって開放するというので行ってくれと言われ、ルーマニアに入りました。


 チャウシェスクという独裁大統領は、それこそソビエトの社会主義の本当に一番悪い部分を徹底的に真似した人です。いわゆる箱もの行政というものを多くやった人です。ですから誰も住まない軍の幹部向けの大きな無機質なビルを何十棟も建てたり、また軍がパレードをするためだけの幅の広いまっすぐな道をつくったり、なぜかパリの凱旋門そっくりのものを持って来たりと訳の分からないことをし放題でした。最後は革命が起こり、逃亡しようとしたところを人民に捕まり夫婦で公開射殺されました。それまでの市街戦がテレビなどで報道されましたが、血糊が飛び散るのが分かるようなすさまじいものでした。
 それから1年ほど経ってから、そこに行かせていただきました。新生ルーマニアに関わる仕事で外国からの政治、経済、文化の関係者が泊まるホテルは一箇所だけ。その一箇所だけは綺麗にしてありましたが、それ以外の場所は機銃掃射の跡がいっぱい残っていました。そして、地下通路に入るとそこは革命軍と国防軍との銃撃戦があった場所で、まだ死体がいっぱいある……そういうところに行ったのです。

 ブカレスト大学というところで文化交流の講義をさせていただいたのですが、講義のあとのレセプションで先生がこんなことを言いました。「私たちは何も海外のことを知らないのに、知っているような顔をして生徒に教えなくてはいけなかった。これからは生徒と一緒に勉強する。今日は日本文化を勉強できた。私も生徒です」と言ってくれました。そのとき、1時間ほど話をしたのですが、これで良かったのだろうかと冷や汗が流れました。自分では良い話をしたと思っていたのですが、大学の教授も生徒のつもりで、初めて極東の文化の話を聞いて、お茶のデモンストレーションを見たわけです。

 先生や先輩、兄弟でも良いのですが、先に生まれた人間や年齢が上の人間は年下の人に対して、どうしても「教えなくてはいけない」という気持ちに取りつかれてしまいます。取りつかれてしまうと教えなくてはいけない、と思うから本当に生きたことを教えられないのかもしれません。賢く見せようとして教えようとしている先生は、じつは賢くない人が多いのかもしれません。私はその意味で、ルーマニアの先生たちというのは、「これから自分も生徒だよ」と一緒になって言えるのは凄く好感が持てたわけです。

 海外との交流にはいろいろな発見があります。とても変わったところでは、インドのブッダガヤという場所へ行ったときのことです。インドは混沌とした場所です。あれだけたくさんの人民がいるのに、その中にいまだにカースト制度が残っています。ブッダガヤという場所は、お釈迦様が亡くなった菩提樹がある場所です。そこに大きな塔が立っていて、そこでお茶を点ててほしいといわれました。

 着いて不思議な光景を目にしました。お釈迦様という立派な方が亡くなった場所なのだから、それは整然としているのだろうと思いました。たしかにお釈迦様をお祀りしている塔の周りは、たくさんのインド仏教の僧侶が占めていました。しかし、それを一歩出たところには、ボロボロのホームレスがいました。腰巻き一つで体中ほこりまみれで、しかも病気がひどくて目が見えなかったり、指が欠けていたり……。中には、この人死んでいるのではないかと思うような人が倒れているのです。でも誰もそれに手を差し伸べない。日本のお坊さんやカトリックの神父さんももちろん、弱った人や亡くなった人に対しては敬意を持って接するものだと私たちは思ってきたけれども、そこでは違いました。塔で一生懸命にお務めしている人たちから数メートルの距離で人が倒れて、身動き一つしないのです。倒れている人、微かに動いている人、もう頭がおかしくなって天に向かってわけの分からないことを叫んでいる人……。その中で、僧侶たちはお教を読み、私はお茶を供えました。

 お釈迦様に対して一生懸命気持ちを向けている、つまり生きようとしている、その一歩横ではもう死があるのです。生の横に死があり、それは常に横にあり続けるのです。そこで別に悟ったわけではありませんが、二つのものが合わさって私たちの世界があるということに、ようやく気がつきました。
 明と暗、明るい部分と暗い部分、それから生と死。生きることと死。昔、ブルームやヘーゲルといった哲学者がよく言っていた言葉を思い出したのです。反対の合一、二つのものが合わさって宇宙が出来ている。宇宙というものは男と女、太陽と月、二つのもの、まったく反対のもの同士が合わさってできているということです。私はこのことを学校で習ったとき、知識として覚えました。しかしインドのブッダガヤという混沌とした場所で、生の中に死が入っていて、死の中にも生があるというということを初めて知ったのです。


 それから私は外国へ行ってお茶のデモンストレーションをしたり、また茶の湯を通じて日本文化を知ってもらうというフルコースの教え方をやめました。日本文化を茶の湯を通じてまるごと知ってもらうというのは無理だということに気づいたのです。私たちの世界のなかに生と死や、明と暗のように対極するものが集まってできているこの世界で、なにか一つのものが真理だと言って訴えることが非常に愚かだと思うようになったのです。最近はお客様が何に興味を持っているのかだけを気にして、お茶を体験してもらうようになりました。

 皆さん方が聞いたことのある外国人の名前を挙げると、愉快だったのはリチャード・ギアが来たときです。彼は仏教に興味を持っていました。それで、部屋に掛けるお軸を仏教にちなんだものにしたり、曼荼羅をつかったものをお見せしたところ、大変喜んでもらえました。彼は家元のところに行ってお茶を飲んだことはあまり覚えていないかもしれませんが、日本に行ってお茶を体験したということはその曼荼羅などを通じて心に残るはずです。

 また、ミック・ジャガーというロックアーティストが来たときに、広い部屋が落ち着かないというので一番狭い部屋に案内しました。一畳台目という畳2畳分よりも狭い部屋でお茶を飲んでもらったらとても喜んでくれました。

 日本人ではサッカーの中田英寿くんがお茶に非常に興味があって、頻繁にうちへお茶の体験に来ています。彼もお茶だけに興味があるのではなく、お茶を飲むために使うさまざまな道具、たとえば竹や革、織物や金属工芸を用いたものなど、日本の持つ昔からの伝統工芸を「クールジャパン」として使えないかと努力してくれています。
 彼のように若い人が、外に向かって日本のことを語れるようになるというのは、すごいことなのではないかと思います。私が最初に言ったように、本や写真でしか知らない外国ということではなく、中田くんのように自分で行って、経験してきて、そして日本に戻り、逆に自分に足りない日本が何かということに気がついた……。それが大切なのです。

 皆さんは、これから国際社会にいろいろな形で関わっていくことと思います。そのときはまず、自分の国のことを語れるようにしてほしいのです。外国に行ったら、いろいろなレセプションやパーティなどで、あなた方に誰かが何かを聞きます。「日本では“わび”とか“さび”っていうけれど、それはどういう意味?」と聞かれたときに辞書で調べた答えを言うのではなく「例えば、日本人は満月が欠けているのを見て、心が静かになります。私はこれがわびだと思います」と言えばそれで良いわけです。辞書に書いてあることを答える必要はありません。身近なこと、なんでも良いのです。自分の中から出てくることで答えられたら、相手は必ず受け止めてくれます。自分のなかで答えられるような環境を作ることができればいいのです。

 私の家には毎年7〜8人の留学生が来ます。小さいけれども、茶の湯に関する日本文化の専門学校を持っています。3年間の寮生活の学校ですが、外国人のための1年間の研修コースもあります。今年は10名来ています。私が偉いなと思うのは、外国から来る人たちは、自分のことをよく知っています。よく知った上で、そこに日本のことを付け加えようという欲を持って来ているということです。

 皆さんが外国に行かれるとき、日本のことをよく心に持っていってください。何でも良いのです。東北楽天ゴールデンイーグルスのことでもいい、田中将大投手のことを語れたらいいじゃないですか。何でも良い、何かをきっかけにわびってどういうことだろう、さびってどういうことだろうと自分で考えることによって、皆さん方は世界と自分との間に一つの窓口を作れるように心がけてほしいのです。今は国外に出なくても十分国際交流ができる環境が整って来ているんだ、とそのような気持ちで勉強を進めていってください。その勉強を進めるのに、仙台育英学園は学校として最高の環境にあると私は思っています。

 
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